”これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、適度に語る者も非難される。太陽や月、大地でさえも時に非難の対象となる。世に非難されない者はいない。 ただ誹られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない。”
ダンマパダ第17章 「怒り」227~228
そして、それらの評価をどう受け取るべきなのかが続けて書いてあります。
”もしも心ある人がしっかりと考察して、「この人は賢明であり、行ないに欠点がなく、知慧と徳行とを身にそなえている」といって称讃するならば、その人を誰が非難し得るだろうか?”
ダンマパダ第17章 「怒り」229~230
つまり、心ある人(=正しい知恵をもって物事を捉える人)が良い評価をしてくれているのならば、あなたのやっていることは正しいのだから自身を持ちなさいということです。
次の句は、そのような心ある人に出会った時の振る舞いを示しています。
”自分の罪過(つみとが)を指し示し過ちを告げてくれる『聡明な』人に会ったならば、その賢い人につき従え____隠してある財宝のありかを告げてくれる人につき従うように。そのような人につき従うならば、善いことがあり、悪いことは無い。”
ダンマパダ第6章 「賢い人」76
ここで大事なのは、「聡明な人」「賢い人」という点です。お釈迦様の言葉ですから、これらは仏教という価値判断基準での「聡明な人」「賢い人」であって、「この人はすごい人だから」みたいな曖昧な基準ではないことは注意しなければなりません。しかし少なくとも、”自分の罪過(つみとが)を指し示し過ちを告げてくれる人”なら誰でもよいというわけではないのは明らかです。大事なのは、一人一人の心を良く見極めることです。
コメント