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【文字起し】中村元先生によるスッタニパータ解説その3 三昧一心・幸福論

中村元先生文字起し

 最初に第一節として説かれておりますのは、「宝」と名付けられる節でありまして、南方仏教では非常に大切であります。いろいろな機会に唱えられ教えられます。これをまず読んでお伝えすることにしましょう。

222 ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、空中のものでも、すべて歓喜せよ。そうしてこころを留めてわが説くところを聞け。

223 それ故に、すべての生きものよ、耳を傾けよ。昼夜に供物をささげる人類に、慈しみを垂れよ。それ故に、なおざりにせず。かれらを守れ。

224 この世または来世におけるいかなる富であろうとも、天界における勝れた宝であろうとも、われらの全き人(如来)に等しいものは存在しない。この勝れた宝は、目ざめた人(仏)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。

 これらの詩の文句が、いずれも、この心理によって幸せであれという言葉でもって終わっております。続いて説いておりますが、

225 心を統一したサキヤムニ(釈尊)は、(煩悩の)消滅・離欲・不死・勝れたものに到達された、──その理法と等しいものは何も存在しない。このすぐれた宝は理法のうちに存在する。この真理によって幸せであれ。

 心の安定を貴んでいるのですね。

226 最も勝れた仏が讃嘆したもうた清らかな心の安定を、「ひとびとは(さとりに向かって)間をおかぬ心の安定」と呼ぶ。この(心の安定)と等しい者はほかに存在しない。このすぐれた宝は理法(教え)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。

 心の安定と申しますのは、元のパーリ語で「サマーディヒ」と申しまして、心を安定し統一することです。漢訳の仏典では、「サマーディヒ」を「三昧(さんまい)」と音訳している。日本の俗語でも○○三昧ということをよく言いいますが、時には非常に崩れた意味で使われることもあって、例えば刃物三昧というような言い方もありますが、そればっかりに夢中になっていることの意味です。しかし元の意味は心を統一して思うことであります。禅定といっても実際には同じであります。禅の原語は「リャーナ」で、俗語では「ジャーナ」となるのですが、それを、音を写して「禅」となるんですね。「座禅」の「禅」です。「定」というのは定まるという字。精神統一をすると心が定まりますから、それで禅定というのであります。それを称えているのであります。


 更に第四節には、【こよなき幸せ】ということが説かれております。私たちはどのように生きたらいいのでしょうか。その生きる生き方を教えてくれるものが仏教でありますが、では仏教は私たちにとって、幸福というのはどんなものだろうかということを教えているかどうかということを問題にしますと、この【こよなき幸せ】という一節は、非常に短いですけれども、人生の幸福というものは、何かということを、まとめて述べているのであります。いわば釈尊の幸福論です。その一節を読んでお伝えいたしましょう。最初は散文の糸口、序の分があるのです。こう記されております。

わたたしが聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はサーヴァッティー市のジェータ林、<孤独な人々に食を給する長者>の園におられた。

 このジェータ林を、漢訳では「祇園」と申します。今日祇園という地名が日本にもございますでしょう。さらに経典は次のように申します。

そのとき一人の容色麗しい神が、夜半を過ぎたころジェータ林を隈なく照らして、師のもとに近づいた。そうして師に礼して傍らに立った。そうしてその神は、師に詩を以て呼びかけた。

258 「多くの神々と人間とは、幸福を望み、幸せを思っています。最上の幸福を説いて下さい。」

 この問いに対して、釈尊は次々と人間の幸福なるものの具体的な内容を説いて示されるのであります。

259 諸々の愚者に親しまないで、諸々の賢者に親しみ、尊敬すべき人々を尊敬すること、──これがこよなき幸せである。

 じゃあ愚か者とか賢者っていうのは一体どういう人なんであるかということが問題になりますが、人間の理に気づかない人が愚者、愚か者でありまして、理を知って、体得している人が、賢者なのであります。世の中を見ましても、金儲けだけはうまくても、自分の持っている財産を増やすことに汲々として、夜も眠られないというような人がありますですね。そういう人はやはり、愚か者であると言わなきゃいけない。あるいは、そういう人は、いくら頭が良くても賢者とは言えない。やっぱり愚か者であると言わねばならんでしょう。これに対して、知識に乏しく、計算や才覚が下手でも、心が安住している人、しっかりと落ち着いている人は、賢者なのであります。賢い人である。この第259の詩を、もう一度読んでお伝えいたします。

259 諸々の愚者に親しまないで、諸々の賢者に親しみ、尊敬すべき人々を尊敬すること、──これがこよなき幸せである。

 更に次の、第260の詩では、このように申します。

260 適当な場所に住み、あらかじめ功徳を積んでいて、みずからは正しい誓願を起こしていること、──これがこよなき幸せである。

 その事情を具体的に申し上げますと、昔、古代インドでは、修行僧は市街から遠からず近からざるところに住むべきものとされていました。つまり都市の中心部に住むと、どうも雑音に悩まされる。心が乱される。またあまり街から離れていると、どうも修行僧の生活としては不便である。そこで当時の修行僧は、街から遠からず近からずというところで暮らしていたわけです。

 これを現代に当てはめてみますと、このような生活は困難であるということは考えられます。都市の喧噪の中に住まねばならない人々も多いでしょう。しかし、自らの主体的な心の持ち方により、喧噪や誘惑は無いのと同様になることも可能ですね。とらわれない。工場で始終機械の運転を耳に聞いている。あるいは鉄道の側で、列車の音を聞きつけている人には、騒音がそれほど気にならない。どの駅の近くにも、飲み屋だとかパチンコ屋だとかいろいろありますが、それらに近づかなければ、そんなものは無いのと同じことですね。心の持ち方によるのです。

 そして自らは正しい請願を起こしていること。これを称えております。これこそ人生に喜びと確信を与えるものであります。高らかな誓い、請願を立てていれば、挫折に屈することもないし、気の滅入ることもありません。他人からとやかく悪口を言われても、請願を持っている人なら、蚊の鳴くほどにも気にも留めないでありましょう。いかなる困難も、請願の前には無に等しいと言えるでありましょう。

 次の第261の詩を読んでみましょう。

261 深い学識あり、技術を身につけ、身をつつしむことをよく学び、ことばがみごとであること、──これがこよなき幸せである。

 みごとな言葉というのは、なにも立て板に水というように、じゃべりまくることではなくて、相手を怖れないで、思っていることが自由に口をついて出てくることです。恐れずに言うという、この態度は仏教では常に貴ばれておりました。そして現実に社会人として生きていくためには、ただぼんやり暮らしているというのであってはならないのであります。常に新しい知識を得るように心がけ、日進月歩の技術を体得し、自ら自己を訓練し、向上に努めなければなりません。進歩を目指す。そこで、深い学識あり、技術と訓練をよく学び受けるということが貴ばれるのであります。

 次の第262の詩を読んでみましょう。

262 父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと、──これがこよなき幸せである。

 考えてみますと、家庭の幸福というものは、最も身近な幸福ですね。それは降って湧いてくる幸福ではなくて、育てはぐくむことによって現れてくるものであります。だれでもその気になれば、幸福が得られるはずなのであります。それに並んで、仕事に秩序あり混乱せぬことということが言われておりますが、これは職業人にとって本質的なことであります。生活の軸でもあり、生きる糧でもある仕事を、毎日狂いなく行うことが大切であります。生きがいを手にするためには、欠くことができない、機械文明の進んだ現代においてはこの教えの必要性が痛切に感じられるのであります。仕事の秩序、これが一つ狂うと、現代社会においてはとんでもない混乱と間違いが起こってまいります。だから何でもないようなことのことのようですけれども、本当にこれは心がけるべきことでありましょう。もう一度読んでお伝えいたします。

262 父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと、──これがこよなき幸せである。

 次の、第263の詩を読んでみます。

263 施与と、理法にかなった行いと、親族を愛し護ることと、非難を受けない行為、──これがこよなき幸せである。

 施与、施し与えるというのは、今日の言葉でいえば、贈与と言い換えてもいいかもしれません。人にものを与える。それは物質的なものであってもいいし、精神的、無形のものであっても構いませんが、他の人々に、何ものかを与えて奉仕することによって、人々を助けることができるのであります。自分のものだといって握りしめているのではなくて、他人に何かを与えるところに、人生の深い喜びがあるのではないでしょうか。

 この短い一節は、人生の幸福とは何かということをまとめて述べています。いわば釈尊の幸福論であると、そう言えるでありましょう。ですから、もう一度繰り返して読むことにいたします。

(259~263朗読)

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