記事の概要
中村元先生による原始仏典スッタニパータの解説動画の文字起しです。
音声を聞いて勉強するのは、多大な集中力と時間を要します。
もちろん耳で聞いて勉強することも大変有益ですが、
読んで学習できる形にすることで、より深い理解が可能になると思います。
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第一章 蛇の章
まず、最初の第一章蛇の章について、申し上げましょう。
この章の中には、蛇のことが盛んに出てくるんですね。ことに蛇の抜け皮を捨て去るようにということがよく出てくるんです。この最初の聖典に最初に蛇のことばかり出てくるっていうのは、日本人にとっては、どうも異様な感じを受けるでありましょう。しかし、インドとか南アジアの国々では、どこに行っても蛇が多いんですね。タイのバンコクには蛇だけ集めた動物園がございます。『蛇の園』ですね。日本でも、昔は蛇が出ましたですよ。私も子供心に覚えておりますが、私が生まれました、島根県の松江市では、都市の真ん中、県庁のすぐ前の家でしたが、その家の下を、大きなウワバミがニョロニョロっと動いていくのを見て怖かったのを覚えています。都市の中心にでも蛇が出てきた。このごろは蛇というものをあまり見かけなくなりました。しかし南アジアではまだ、いろいろな形で蛇が親しいものですから、蛇が龍の崇拝の形で重要視されておりますし、蛇の例えはというものは、インド人にとってはむしろ親しく感じられたのですね。ですから蛇の抜け皮というのは、なじみのあるたとえ話だったのです。
ここには17の詩の集成がございますが、まず、第一章の一番最初をご紹介いたしましょう。その文句はこうなっているんですね。
1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。
修行者と訳してお伝えしましたが、原典では「ビク」とあります。これを漢訳仏典で「比丘(びく)」と音を映しておりまして、「ビク」の言葉の意味ですが、『乞う人』という意味です。つまり、当時の修行者は、托鉢乞食(たくはつこつじき)によって生きていました。それぞれの家を回って、托鉢して食物をもらって、それで身体を保っていたのですね。托鉢乞食と申しますと、「こじき」ということばの基になるわけですが、しかし、南アジアでは托鉢する比丘はいばったものですよ。それぞれの家に托鉢に回って、黙って立っているんですね。決して何を下さいなんてことは申しません。黙っている。そうすると中から、その家の主婦が出てきて、その家で作った一番新しいご馳走を、鉢の中に入れるのです。うやうやしくおじぎをして、合掌して、鉢の中にいれたら、また合掌して退きます。それをもらった修行者の方、お坊さんは、「ありがとう」とも何ともいわないで、ツンと立っているんですよ。ツンとして、頭を後ろにひくぐらいに見えますね。その時、「ありがとう」というと、もう修行者は、食物に執着していることになる。せっかく清らかな気持ちで世の人が下さった、その托鉢の食物をかえって汚すことになる。だから何にも言わないんですね。ありがとうと言うべきは、むしろ世俗の人たちである。修行者に施しをすることによって、功徳を積むことになる。だから、ありがとうというべきはむしろ世俗の人であるという、そういう理解があるんですね。
そういう修行者は、この世とかの世とを共に捨て去る。この世にいかなる執着も残さないし、何を得たいとか何になりたいというようなことも考えない。のみならず、死後にいいところへ生まれたいとか、そいうことも、一切考えない。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
蛇が脱皮しますと、もう抜け皮っていうのは要らないものですね。それにとらわれない。そのような気持ちで、何物にもとらわれるなというのです。
また、第17の詩句には、こういうことを言っております。
17 五つの蓋(おお)いを捨て、悩みなく、疑惑を越え、苦悩の矢を抜き去られた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
「五つの蓋い」と申しますのは、心の蓋いですね。人間の心が、どうかすると、覆われて本当の知恵を失うことがありますね。その5つの蓋いというのは、貪欲、怒り、心の沈むこと、心のソワソワすること、疑い。これを捨て去る。
そして「苦悩の矢を抜き去られた」と申しますが、苦悩の矢というは、欲情、嫌悪、つまりあるものを欲しいと思ったり嫌だと思ったりする。迷妄、高慢、悪い見解。そのように説明されております。
そういうものが無くなって、修行者はもうこの世とかの世とを共に捨て去る。「蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。」そのように説いております。
第一章 蛇の章 第八節 慈しみ
そのほかこの第一章には、いろいろなことが説かれているのですが、特に重要なのは、『慈しみ』を述べた第八節であります。そこには唐の詩の言葉が述べられております。これは非常に重要でありまして、南方アジア諸国では、重要な儀式とか、集まりの場合にはよく唱えるのです。非常に重要な言葉でありますから、これを一応全部読んで、まず、お伝えいたしましょう。
143 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。
144 足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることがない。
145 他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
146 いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きいものでも、中ぐらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、
147 目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでもすでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。
148 何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
149 あたかも、母が已が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、無量の(慈しみの)意を起すべし。
150 また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。
151 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥つつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。
この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。
152 諸々の邪な見解にとらわれず、戒を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。
まことにいい言葉が述べられておりますですね。
この一説は『慈しみ』という題なっておりますが、元の言葉で申しますと、「メッター」というんです。『真実の友情』を意味する言葉であります。
それから『憐れみ』を説いておりますが、「憐れみ」は、「カルナー」と申しまして、漢訳仏典では、「悲」と訳します。「メッター」が「慈」、「カルナー」が「悲」と訳されます。カルナーは、『悲しむ』という字をあてるんですが、『共に悲しむ』ことでありますから、つまり、憐れむという心になるのですね。
慈悲喜捨—四無量心
やがて仏教では、人の願わしい心境として、「慈悲」を含めて、四無量心ということを説くようになりました。四つの無量、量の無い、限りの無い、限定することのない心という意味です。
それは、まず第一に「慈」、慈しみですね。慈しみというのは、一切の生きとし生けるものどもは、安楽であれかしと念ずる、という仕方によって、生きとし生けるものに利益(りえき、りやく)と安楽とをもたらすことを願うことであります。
次の「悲」というのは、憐れみでありまして、ああ、一切のいきとし生ける者共が、この苦しみから逃れますように。と念ずるというような仕方によって、生きとし生けるものから、不利益や苦しみを取り除こうと願うことであります。
それから今度は「喜」ですね。よろこびです。生きものどもは実に喜んでいる。彼らは見事によく喜んでいる。そう心に思うというような仕方によって、生きとし生けるものが利益と安楽から離れないように願うことであります。ともに喜ぶことですね。
それから、第4に、「捨」と申します。これは心の平静ということであります。何事も自分の業によってあらわされるものであると思って、苦楽、快と不快にわずわらされないで、心が平静でとなり、落ち着くことであります。
「慈悲喜捨」、この4つが四無量心として、願わしい心の心境を示すものとして、たっとばれております。
この慈しみの説にはいろいろいいことが教えられているんですが、そのうちの一つとして、第144の詩をもう一度読んでお伝えしいたましょう。
知足
144 足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることがない。
この心構えというものは、現代の文明においては特に重要なことでないかと思います。足ることを知る、わずかなもので満足する。足るを知ることを漢字では知足と書きますですね。満足していることです。サンスクリットで「サントゥシティ」と申しますが、それを知足と訳しております。仏教の漢訳仏典には、知足という言葉がよく出てくるんですが、そのように訳したのは、おそらく中国の古典であります、老子の理想に一致するものがあったからでありましょう。
老子の第33章に述べております。
自らに勝つものは強し、足るを知るものは富めり
老子はそういっておりますが、この理想が日本に受け入れられまして、自分の持ち分に満足し、安んじて欲張らないということが、日本でも古来理想とされてまいりました。知足の理想というものは普遍的なものでありまして、これはまさに、西洋でもストアの哲人の目指す人生の理想でもありました。例えばストアの哲人として有名なエピクテトスは、満足という一章で次のように言っております。エピクテトスはことに日本では明治時代の仏教の思想家であった清沢満之(きよさわまんし)が深く傾倒しておりましたので、仏教の理想にも通ずるということがはっきり知られるのであります。エピクテトスは、「満足」ということにつきまして、次のように言っております。少し長いですが全文をご紹介いたしましょう。
君は苦労もしないし、また満足もしていない。そしてもし君が一人ぼっちならば、君は孤独だというし、またもし人々と一緒ならば、君は彼らを語り屋だとか泥棒だという。また君自身の両親や子供たちや兄弟たちや隣人たちをも非難するのである。だが君はただ一人いるときには、それを平和とか自由とか呼び、自分を神的なもの(神様らしいもの)と似ていると思うべきであったし、また多くの人々と一緒の時には、俗習とか喧噪とか不愉快とか呼ばないで、お祭りとか集会とかいって、そしてそのようにしてすべてを満足して受けるべきであったのだ。
そうするとそういう風に受け取らぬ人々にはどういう罰(ばち)があるか。彼らが持ってるような、そういう気持ちになることがそれだ。ある人は一人でいることに不満だって?彼は孤独であるがいい。ある人は両親に不満だって?その人は悪い息子として悲しんでいるがいい。ある人はは子供に不満だって?その人は悪い父親でいるがいい。彼を牢獄に入れるがいい。どんな牢獄にか?彼が今いるところがそれだよ。というのは、彼はいやいやながらいるからだ。ひとがいやいやながらいるところは、彼にとっては牢獄である。ちょうどソクラテスが喜んでいたために牢獄にいなかったように。
「それで私の足がびっこになったのです。」え?つまらんこと言うね君は。すると君はちっぽけな一本の足のために、宇宙に対して不平なのか?それを全体のために君はささげないのだろうか。君は退かないだろうか。君はその授けてくれたものに喜んで従わないのだろうか。君はゼウスの神によって配置されたもの。つまりゼウスが彼の所に行って君の誕生を紡ぎだした運命の女神と一緒に、定めたり秩序づけたりしたものに対して不平で不満なのだろうか。君は全体に比べればどれほど小さい部分であるかを知らないのか?
だがこれは肉体の点においてだ。というのは、少なくとも理性の点では、神々になんら劣りもしなければ、より小さくもないからである。なぜなら、理性の大きさは、長さや高さによってではなく、その考えによって判定されるからだ。
エピクテトスの人生談議に出ております。
考えてみれば、足るを知ること、すなわち自分の持ち分に満足して喜びを見出すということは、誰にでも可能な幸せへのみちであるといえましょう。原始仏教、老子、ストアの哲人たちによって、古代のほぼ同じ時代に説かれたということは誠に興味深いのであります。そこで144の詩の文句をもう一度読んでみましょう。
144 足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることがない。
近代文明の生き方というものが、どちらかというと、自己の欲望を追及するという方向に向かっていました。そこで自然環境の破壊などということもおきまして、いま人類はその罰が当たっているんですね。そういうことを思いますと、ここに説かれている精神は非常に貴いもので、現在の我々が益々反省すべきことでありましょう。
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