初期仏典の成り立ちと構造

仏典、仏伝

仏典の基本構造

ここで語るのは、大乗を含まない最初期の、仏教の基本であり、仏教にとって一番大切な、ブッダの教えの仏典である。これは三つジャンルに分けることができる。いわゆる、経・律・論である。

これらの仏典は、ブッダ入滅後すぐに阿羅漢(あらかん=悟った仏弟子のこと)を集めて会議を開き編纂されたとされている。ブッダが生きている間は、ブッダが語る言葉が全てだったのだが、ブッダ亡き後も教えを伝え残していくために、ブッダが説いた膨大な説法を集めて編纂したわけである。

経というのは、ブッダが我々に遺した悟りへと向かうためのマニュアル、悟るために何を知り、何を行えばよいのかということを細かく書いた実践的方法論である。

東南アジアやスリランカに伝わった、パーリ語で伝わっている経は、最も古い時代の仏教の経であるとされている。その内容は短編長編入り混じった小説集のようであり、一つ一つ独立したエピソードが集まっている。この中には数千本の色々な教えがコレクションされている。この経の部分を、阿含経あるいはニカーヤと呼ぶ。

律とは、比丘・比丘尼が僧団(サンガ)の中で、どのようにふるまえばよいか、どういったことを行えば罰せられるか、つまり、組織を維持運営していくための法律集である。経に対して非常に量が少ないのが特徴のひとつである。経は小説の集まり、文学全集のようなものであるが、律は全体で一つの体系をなしている。例えていうと六法全書のようなもので、これは全体としてひとつの法律書として働くということである。この量の違いは、それぞれの機能の違いも表してる。

最後に論と呼ばれる、建前上は、ブッダではなくその後の人たちが遺したものが編纂された、仏教哲学書と呼べるものである。ここにも色々と説があり、論も第一結集で作られたとする資料もある。現実的な話としては、経と律が第一結集で編纂され、論はその後の比丘、比丘尼達がそれを元に編纂した哲学書であると考えるのが一般的である。このように紹介すると、現在に至るまで仏教哲学は研究され続けているので、論というものもどんどん増えていきそうに思うが、ある時代に、ここまでが論であるということを正式に決めたので、本当はその後もいろんな人たちがいろんなこと考えて、言ったり書いたりしたはずであるが、それは論の外、論外に置かれることになり、それ以降仏典としての論は増えないことになった。

この経・律・論を三つまとめて三蔵と言う。三蔵法師の三蔵である。三蔵法師とは、経律論をインドから中国へ持ち帰るというミッションを背負った僧侶の総称であり、達成できた者は僅かである。

その経・律・論は、いろんな地方、方向へ、違った流れで伝わって行った。その過程で様々な変遷を経て、付け加えられたり変化したりもしている。

例えば南の方向ではスリランカや東南アジアへ、また北の方向ではシルクロードを通って中国に入っていく。三蔵は様々な経路を通って、違う場所へと枝分かれしながら伝わっていった。そうすると当然、今現在残っている三蔵というものも、中国に伝わった漢文バージョン、あるいは南の国々が使っている古代インド語バージョン、あるいはすでに失われた、シルクロードの遺跡の中から出てくる、中央アジアバージョンなど、いろんな形の三蔵が、個々各所に伝わってるわけである。

日本に仏教が伝来したのは、諸説あるが6世紀ごろとされる。入ってきたのは当然中国との関係であり、漢文バージョンである。以来千数百年我々が使い読み続けている、漢文の三蔵の代表的な資料が【大正新脩大蔵経(たいしょうしんしゅうだいぞうきょう)】である。大正時代に日本の学者が総がかりで各地に残っていた漢文の色々な資料まとめて、全集の形にした、日本が誇る世界の遺産である。この中の55巻ぐらいまでが、インドで作られた文献である。この中に経も律も論も含まれている。

スリランカや東南アジアに今も伝わっている三蔵は、先にも触れたが古代インドの言葉がそのまま海を渡ってスリランカ東南アジアに伝わっており、これらの国々での仏典というものは、そのである古代インド語であるパーリ語をそのまま使用して、2000年以上これらの仏教国で伝えられてきた。もちろん複製時は書写という形になるので、どこまで正確に残っているのかという議論はあるが、様々な国でヤシの葉などに書写されたものが現存しており、それらを文献として、イギリスのパーリ聖典協会、【パーリ・テキスト・ソサイアティ】が、パーリ語の聖典をアルファベットで直し、出版している。

大正新脩大蔵経の漢文の文献と、パーリ語の文献を比べると、パーリ語の方が量が少ない。なぜならば、漢文の資料の中には初期の経である阿含経の他に、大乗仏教の経、つまり大乗仏教が生まれて新たに作られていった仏教聖典も含まれているからである。パーリ語で残っている聖典も、大乗仏教の影響を多少は受けているが、ほぼ大乗仏教が生まれてくる前の最も原初的な形で残っているので、量的にも随分違ってくるのである。このパーリ語の経の中には、我々が知っている般若経、法華経、華厳経、大日経、阿弥陀経、なども含まれていない。

律の冒頭の話

ブッダが悟りを開き、仏教という宗教を生み出したそのプロセスについては、律という仏教の法律書の一番冒頭部分に、仏伝として元々入っていたものが伝えられている。この仏伝には、舎利弗(しゃりほつ)と木蓮(もくれん)という二人の弟子が入団し、仏教僧団が完成体になったというところで終わる。このときブッダはまだ生きている。

涅槃経

阿含経の中の一エピソードである涅槃経には、ブッダ入滅の様子が書かれている。経の中の一本が、まるまるブッダ入滅の様子を語る経である。

律の末尾の話【ブッダ入滅後なにが起こったか】

ブッダが亡くなった後の顛末というのは、また違う資料の中に書かれている。元々の歴史記録はいろいろなところに点在している。不思議なことであるが、先ほど、ブッダが悟りを開いた話は律という法律書の一番冒頭に置かれていたと書いた。そしてブッダが亡くなった後の話は、その同じ律という資料の一番最後に来ている。律の末尾に、ブッダなどの歴史的な事柄が書かれていて、ブッダの最初と最後がちょうど律の頭と尻尾に置かれる形になっている。

この話は、あくまで仏典の中の物語であり、伝説であるので、必ずしも歴史的な事実ではないという点に留意してもらいたい。

ブッダがが亡くなり、その後すぐに第一結集(だいいちけつじゅう)という仏典編纂会議が行われた。ブッダが亡くなった後に、我々は今後、どのようにしてブッダの生前のお言葉を次の世代へ伝えて行ったらいいだろうか、というテーマで、阿羅漢を500人集めて会議を開いたのである。この会議による仏典編纂により、今日我々が伝えて持っている経や律などの重要な仏典が編纂された。

フラウウォールナー(Erich Frauwallner)と言う仏教学者はこう主張した。

「最初この二つの話は繋がっていて、一つの仏伝だったのだが、二つのエピソードに分割し、その間へブッダが作った法律規則を入れていった。そして新しい規則ができるたびに二つの物語が離れて行き、最終的に、冒頭にブッダが悟りを開いた話、そして律の内容である法律規則、最後にブッダ入滅後の物語という、今の形になった。」

魅力的な学説ではあるが、これが正しいかというとかなり無理があり、今のところこれを支持するひとはあまりいない。

この律の末尾のエピソードは、「律蔵五百犍度(りつぞうごひゃくけんど)」と呼ばれる。犍度とは、日本語で言うと”章”、英語でいうと”チャプター”にあたる。

以下その物語の概要を解説していく。

クシナガラという辺境の村で、ブッダが亡くなるところから物語が始まる。

その知らせが伝わり、皆が悲しんでいる中で、一人だけ喜んだ弟子がいた。その弟子は名をスバッタと言う。なぜスバッタが喜んだのかと言うと、「今までお釈迦様は私たちに、あれをするな、これをするな、あれしろ、これしろと、色々な命令をして私たちの生活を縛ってきた。けれども、今お釈迦様が亡くなった。もう我々は自由なんだ。何をしても良くなったんだ。こんな嬉しいことはない。」というわけである。

実はこのスバッタが喜んだという部分だけは、涅槃経にそのまま出てくる。つまりこの部分だけ重なっているわけである。おそらくはこの五百犍度の記述の方がオリジナルであろう。なぜならば、スバッタという弟子に対して、他の真面目な僧侶達は、「お釈迦様亡くなってまだ何日もたたないうちに、もうこんなこと言っている弟子が出てきてしまった。こんなことではこの後、数ヶ月数年数十年と、仏教が伝わっていく間にどれほど同じような奴が出てくるだろうか。このような者たちが、仏教の教えを正しく伝えていけるはずがない。」と言って、大いに心配したので、それが理由で第一結集が開かれた。という論理構造になっているからである。涅槃経の最後にこの部分だけあるのは、不自然なことであるが、ともあれ実際そうなっている。

さて、そのときの教団内でのリーダー格であった【大迦葉(だいかしょう、マハーカッサパ)】という長老がいた。出家してから一番年数が長い上座という意味ではなく(当時の仏教僧団においては、出家してからの年数のみで席順が決まっていた)、指導力があった人物だったのだろう。スバッタのことを聞き及んだマハーカッサパは、何とかしなければならないと思い立ったわけである。それでよくよく考えて、「お釈迦様のお言葉が、曖昧になって消えてしまう前に、お釈迦様の教えをまとめ、記憶(仏典編纂といっても、その当時は文字で書き残すという文化が無かったので、口伝で残すしかない。文字化されたのは、スリランカの伝説によると紀元前1世紀、ブッダ入滅後、約400年後である)し、それに基づいた、規律のある仏教僧団を作らねばならない」との考えに至った。

その時に、ちょうど近辺に、マハーカッサパを含め499人の阿羅漢たちがおり、仏典編纂会議、第一結集を開催することになった。現時点では500人に一人足りない状態である。

開催地であるが、クシナガラで開くわけにはいかなかった。なぜならば、仏教の僧侶は托鉢乞食にて生活しており、自給自足ができない。必ず誰かに布施の食物をもらわなければならなかった。大勢の僧侶が集まるには、それだけ大勢の、養ってくれる在家の人々いなければならない。クシナガラは小さな寒村であるので、それだけの人数を養えない。そこで、大都会である王舎城ラーシャグリハを開催地にしたのである。

そして開催期間であるが、なにしろ今からブッダの全ての言葉をまとめようという大会議である、一日二日できるわけがない。しかし当時の僧団には、雨期の3か月間外泊を禁止する、雨安居(うあんご)という規則があったので、雨安居の時期を利用して、この3ヶ月間で仏典を編纂することになる。

ブッダの生前の様子を記す伝記【仏伝】

律の冒頭と、涅槃経を組み合わせると、悟りを開き仏教ができた時の様子、ブッダが亡くなる時の様子という、この二大イベントが繋がる。そしてその他の生前のブッダ様々なエピソードは、細かい情報としていろんな場所に残っており、それをつなぎ合わせ中間に入れていくと、悟ってから亡くなるまでの全体像が出来上がる。さらにはこのを悟りを開いたという場面の前の所に、ルンビニで生まれ、王子として育ち、四門出遊があり、出家するといった、悟る前のエピソードも加わることによって、ブッダ伝記全体が見えてくる。

このように、色々な違った場所に違ったエピソードとして点在していた、ブッダの一生の出来事が、後の時代に、次第に組み合わさって、ブッダの一生という大きな物語ジャンルへと整理され、体系化されていった。

それらは後の時代になると、仏典の各部分に点在していたお釈迦様の人生を語る物語が、仏伝という巨大な大きな物語へとさらに展開していって、それが一つのジャンルを作るようになる。ブッダの伝記の始めから終わりまで、さまざまな種類の物語が、全部ひと続きなった物語が、様々な形で作られていくようになる。これがいわゆるブッダの伝記、仏伝という形になっていく。

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