【文字起し】中村元先生によるスッタニパータ解説その5 近親の死

中村元先生文字起し

これからご説明いたしますのは、スッタニパータの第3章、大いなる章の第8節。「矢」と名付けられている一節であります。我々の、煩悩に苦しめられている姿、それを矢がささったことに例えているのであります。以下の一節におけましては、近親がなくなった悲しみに打ちひしがれるなという教えを述べているのであります。

ある在俗信者が、子を失って、悲嘆のあまり7日間食べ物を摂らなかったのを、釈尊が同情して、彼の家に赴いて、彼の悲しみを除くために、この教えを説いたとパーリ文の注解書には、そのように説明されております。

574 この世における人々の命は、定まった相なく、どれだけ生きられるかも解らない。惨ましく、短くて、苦悩をともなっている。

あとどれだけ生きられるか分からないというのはこれは、真相をついておりますね。若い人でさえも、不運に襲われる事がございます。

575 生まれたものどもは、死を遁れる道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生ある者どもの定めは、このとうりである。

576 熟した果実は早く落ちる。それと同じく、生まれた人々は、死なねばならぬ。かれらにはつねに死の怖れがある。

577 たとえば、陶工のつくった土の器が終りにはすべて破壊されてしまうように、人々の命もまたそのとうりである。

人間の心身といえども結局作られたものなんですね。諸々の因縁、種々の原因条件が集まって作られたものです。作られたものがあれば、また、壊れるときがくる。

578 若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に至る。

579 かれらは死に捉えられてあの世に去って行くが、父もその子を救わず親族もその親族を救わない。

580 見よ。見まもっている親族がとめどもなく悲嘆にくれているのに、人は屠所に引かれる牛のように、一人ずつ、連れ去られる。

人間の悲惨な運命をついておりますですね。

581 このように世間の人々は死と老いとによって害われる。それ故に賢者は、世のなりゆきを知って、悲しまない。

582 汝は、来た人の道を知らず、また去った人の道を知らない。汝は(生と死の)両端を見きわめないで、わめいて、いたずらになき悲しむ。

我々はどこから生まれ出てきたのか、また死んでどこへ行くのか、これは分かりませんですね。言葉では言い表せない不可思議なものが基にあり、またこの先にもあり。というわけです。

583 迷妄にとらわれて自己を害なっている人が、もしもなき悲しんでなんらかの利を得ることがあるならば、賢者もそうするがよかろう。

584 泣き悲しんでは、心の安らぎは得られない。ただかれにはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。

585 みずから自己を害いながら、身は痩せ醜くなる。そうしたからとて、死んだ人々はどうにもならない。嘆き悲しむのは無益である。

586 人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる。亡くなった人のことを嘆くならば、悲しみに捕らわれてしまったのだ。

587 見よ。他の(生きている)人々はまた自分のつくった業にしたがって死んで行く。かれら生あるものどもは死に捕らえられて、この世で慄えおののいている。

588 ひとびとがいろいろと考えてみても、結果は意図とは異なったものとなる。壊れて消え去るのは、このとうりである。世の成りゆくさまを見よ。

なかなか、思った通りにならないで、人は消えていく、ということは実際見られることですね。

589 たとい人が百年生きようとも、あるいはそれ以上生きようとも、終には親族の人々すら離れて、この世の生命を捨てるに至る。

別のところでも言われておりますが、あゝ短いかな人の生命よ。百歳に達せずして死す。たとえ百歳を超えるとも、また病のために死す。仏典では説かれております。

そこで、心構えが説かれております。

590 だから(尊敬されるべき人)の教えを聞いて、人が死んで亡くなったのを見ては、「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」とさとって、嘆き悲しみを去れ。

591 たとえば家に火がついているのを水で消し止めるように、そのように知慧ある聡明な賢者、立派な人は、悲しみが起こったのを速やかに滅ぼしてしまいなさい。──譬えば風が綿を吹き払うように。

家に火がついて、その中に我々は住んでいるようなもの。仏典では、頭念を払うという言葉があります。頭に火がついている、髪の毛が燃えている、その日を消さなきゃいけない。ところが凡人はその運命に気が付かないで、自分の髪に火がついてるんだと、そう思ってそういう気持ちで覚悟を定めてこの世を生きよというんです。こういう例えが持ち出されました訳は、インド人はターバンを巻いておりますですね。これは古い時代からなされてた。だから、どうかすると火が移って、髪の毛が焼けてしまうということが実際にあるわけなんです。その危険を言っているのであります。

592 已が悲嘆と愛執と憂いとを除け。已が楽しみを求める人は、已が(煩悩の)矢を抜くべし。

我々は煩悩に苦しめられる。それは矢が刺さっているようなもの。

593 (煩悩の)矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得たならば、あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、安らぎに帰する。

この境地が願わしいものである、というのであります。

以上が、近親が亡くなった人の、悲しみをきっかけとして、我々の生きる心構えを説いているわけでございます。

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